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---------- 池田(いけだ) ----------



池田の歴史を下記へ転載。(wikiより抜粋)


近世までは、徳川家康から天竜川渡舟の朱印状を与えられ、渡船場「池田宿」として賑わった。
「旧高旧領取調帳」の記載によると、明治初年時点で幕府領であった。

1868年(慶応4年)5月24日 - 徳川宗家が駿河府中藩に転封。それにともない遠江国内で領地替えが行われ、幕府領が消滅。府中藩領となる。

1869年(明治2年)8月7日 - 府中藩が静岡藩に改称。

1878年(明治11年) - 「池田橋」が架橋。木橋、有料橋であった。「池田の渡し」廃止。

1871年(明治4年) 7月14日 - 廃藩置県により静岡県の管轄となる。

11月15日 - 第1次府県統合により浜松県の管轄となる。

1876年(明治9年)8月21日 - 第2次府県統合により静岡県の管轄となる。

1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により近世以来の「池田村」が単独で自治体を形成し、豊田郡池田村が発足。

1896年(明治29年)4月1日 - 郡制の施行により所属郡が磐田郡に変更。

1933年(昭和8年) - 「池田橋」が廃止。

1955年(昭和30年)4月15日 - 池田村が豊田村に編入。大字「池田」となる。

1973年(昭和48年)1月1日 - 豊田村が町制施行して豊田町となる。


渡船場跡 家康の渡船許可証
写真(左)渡船場跡    写真(右)家康の渡船許可証
池田の渡し歴史風景館 復活した池田の渡し
写真(左)池田の渡し歴史風景館    写真(右)「熊野の長藤祭り」の行事として復活した池田の渡し




---------- 池田天白神社祭典(いけだてんぱくじんじゃさいてん) ----------



カラス 天白神社

神社の起源は、奈良時代の女帝・孝謙天皇の頃。鎮守は猿田彦命。江戸時代には池田宿大明神とも呼ばれていた。 天竜川沿いの池田四地区の勇壮な山車の曳き回しが見所。

曳き回される山車は、四町「上若」「藤美若」「中若」「南若」すべてが通称「中泉型」と呼ばれる二輪山車となっている。(正確には中泉型の発展型)

余談だが、その理由としては、「中泉軌道」(※1)の繋がりで、池田宿が現磐田市「中泉」との関わりが濃くあったことが考えられる。 現在も「遠州中泉府八幡宮祭典」では、「東町(東組)」「中町(鳴鶴軒)」「七軒町(騰龍社)」にて三台の中泉型二輪山車が現役で活躍している。 「中泉型二輪山車」については、下記リンクの「中泉祭研究会」様のHPにて更に詳しい調査をされているのでそちらを参照すると良い。

※1 中泉合同運送 - 中泉駅(現磐田駅)と池田村を結んだ人車軌道。1932年廃止。通称「中泉軌道」

遠州中泉 府八幡宮祭典

大正中若 中若山車蔵 中若山車蔵2 中若山車蔵3
写真(左)は、大正10年に西新町(志組)より購入した「中若」(当時は池田村中町)の山車。 レンガの股引から池田で撮影されたもの(?) この山車は昭和34年に老朽化の為解体されたが、車輪は中若山車蔵(写真(右3枚))に現在も保存されている。


祭典初日は、四町合同曳き回し、「手木合わせ」が行われる。 二日目には神事である「式相撲(式角力)」や、「浦安の舞」奉納、「三社祭礼囃子」披露が行われる。 祭礼囃子披露は、大頭年の町が行う。(4年に1度の当番)合同曳き回しでは「すれ違い」が行われ、 千秋楽の天白神社宮入りで、盛り上がりは最高潮となる。山車が、観音堂軒先すれすれに通過するところも見所。


【開催日】10月第2土曜・日曜

【場所】天白神社、及び池田地区

【アクセス】JR豊田町駅から市営バス「ユーバス」(ゆや号)乗車約20分、
「豊田西公民館」下車、徒歩約5分

【お車で】東名高速磐田ICより、約15分



相撲 中若 上若
四町山車 大人の相撲
藤美若 南若 四町山車







以下は管理人が先輩(先輩は古老から)から頂いた資料による補足的内容であるが、
貴重なものなので転載する。(記:平成29年10月30日)




池田の氏神 と 祭り について

池田村は江戸時代舟方と地方があり、それぞれ庄屋さんがいた。舟片の庄屋は、半場善右衛門様(池田十人衆)、 地方の庄屋は大橋弥平様(熊野御前の生家)。池田は特殊な村であった。神社も船方と地方と二社であった。 天白若宮神社は地方の氏神で、船方は八王子・神社二社を祀られていたが天白神社(当時は四社が集まって池田大明神と世呼ばれていた) が村社として祀られるようになった。田中神社は、文化11年(1814年)の文書にその名がみられることから、その頃、相殿されたと思われる。 池田大明神の社は、田中(山田米店)の北側あたりであった。 明治7年郷社(若宮八幡宮)に合祀され、郷社に祀られていた。郷社に祀られたのは明治7年(1874年)この近辺の28か所の神社が合祀された。


天白神社 村の氏神 について

孝謙天皇(46代)御世天平勝宝元年(749年)、天平宝字2年(758年)に勧請された。
孝謙天皇は女帝であり聖武天皇の娘、称徳天皇(48代)は同日人物。勧請とは、神仏の霊を分け移し祀ることである。
明治の末期に森下郷社から元小学校(現在の保育園)の所に移され、大正3年現在地に遷宮された。 古老の話では、祭事に郷社に行くことに抵抗があり、郷社から池田に移動したのではないかといわれている。 移動の際に、郷社の塀を壊して叱られた。移動は皆で担いできた。


浜垢離 について

古老の話では初めは船で前の浜(掛塚)まで行き、神事を行っていた。
昭和20年頃は自転車で前の浜の砂を持ち帰り各家庭に配った。
現在は、池若の若衆が浜から砂を持ち帰り河川敷で神事を行い、お浄めした砂を各家庭に配っている。
砂は各家庭の屋敷の四方にまき、清める。浜垢離の行われた年代は不明である。


浦安の舞 について

昭和15年(1940年)皇紀2600年を記念して、神楽舞がつくられ11月10日全国一斉に祭りがおこなわれ、それ以降各神社で神楽舞を舞うようになった。 歌詞は昭和天皇の御製に当時の宮内庁が曲をつけ浦安の舞ができた。
天白神社でも例大祭に浦安の舞を奉納していたが、昭和19年の地震で拝殿が崩壊し、舞が中止された。昭和42年に拝殿再建とともに、浦安の舞を復活し、 現在に至る。舞は小学6年生女子4名にて手振り身振りを忍ばせる優雅な舞で、扇の舞と鈴の舞とにわかれている。


山車(屋台) について

曳き回しは明治10年頃からではないかといわれている。横町の屋台は大正7〜8年頃、一言の屋台を購入、中町(なかんちょう)の屋台は大正10年頃に、 中泉の西新町から購入、三階建てのため取扱いが不便であったため二階建てに改造した。田中の屋台は昭和9年頃に中泉の石原町から購入、 二階建ての屋台で今でも大藤2区で使われている。宿の屋台は掛塚の四輪屋台を購入、その後、袋井の山梨の二輪屋台を購入。 昭和10年頃、下横町と八町が購入し、9台になった。屋台がないところは、居楽町は下横町、下町は八町、竜東は新町の屋台を引いた。 村から町に変わったとき、行政区になり4町(上若、藤美若、中若、南若)、4台の二輪屋台で曳きまわすようになった。


猿田彦命(さるたひこのみこと) について

天孫降臨(天照大御神・あまてらすおおみかみ)の孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高千穂に降りした時、途中に出迎え道案内(先駆・さきばらい)と警護をした神様


神紋 八咫烏(やたがらす) について

神武天皇(磐余彦命・いわれひこのみこと)が大和の橿原に都を定めるとき、紀伊国(きいのくに)の熊野から大和国(やまとのくに)吉野へ出る道は険しい山越えの道 であったので、天照大御神の指図を受け、八咫烏の道案内によって無事に大和に入り、初代天皇となった。 八咫烏は三本足で、神の使いと言われている。サッカーの日本代表のエンブレムにもなっている。天白神社の神紋にいつ頃になったのか不明である。 大和に入るときに金の鷲が弓の先にとまり、前を照らして敵の軍勢が眼が眩み戦うことができなかった。今日竿頭に金色の玉がついているのは、その名残である。 金色のとびと八咫烏が混同されている。


相撲 について

現在天白神社の本殿に保存されている「四本柱土俵免許状」は、天保10年(1839年)に江戸相撲年寄追手風喜太郎が池田若衆に与えたものである。 当時池田村の相撲がいかに盛んであったかの証である。天竜川を挟んで東西対抗相撲が行われ、喧嘩相撲といわれた。船頭は気が荒いので酒の勢いで、 微妙な勝負判定に物言いがつき喧嘩になったからであろう。水引相撲とも言われたのは田の水を引き入れる順番を相撲の勝負で決めたからともいわれている。 現在は、式相撲として引き継がれている。





---------- 遠江池田紫藤會(とおとうみいけだしとうかい) ----------



昭和60年より発足。 池田四地区、「上若」「藤美若」「中若」「南若」からの有志で結成。 昭和以前は、四町ではそれぞれ独自のお囃子(森調、横須賀調混同など)を囃していたが、 囃子の統一感の無さを嘆いた会員などが中心となり、「三社祭礼囃子」の浸透に尽力をした。 現在はすべての町内が「三社祭礼囃子」を囃している。

平成10年以降は、池田以外からも入会者が増え、池田の有志の会と言うよりは、旧豊田町近隣衆の組織となった。 平成26年現在の会員数は、40名程。
現在は、4月末の「熊野の長藤祭り」への参加(会所有の祢里曳き廻し)、秋祭りでの笛吹き派遣などを中心に活動中。

お囃子の稽古も、笛を中心に定期的(毎週木曜日19:30〜21:30 池田コミュニティーセンター)にて行っている。 各種イベント(婚礼余興等)の際は、別途稽古を実施している。
笛の大師匠は掛川市石津の「戸塚操」氏で、三社祭礼囃子の笛の流派である「柴田流」を伝授され、習得希望の会員に継承している。 「戸塚操」氏と、「太田博明」氏は、「玉木梅蔵」氏を師とした、兄弟弟子である。

袢纏の色は2種類あり、藍染、鼠色がある。デザインの違いは、色の他に、鼠色の袢纏には襟に池田の紋があるが、藍染には無い。

会員の所属する町内はこちら



紫藤會
「熊野の長藤祭り」での曳き回しの様子




---------- 三社祭礼囃子(さんじゃさいれいばやし) ----------



主に「遠州横須賀三熊野神社大祭」にて囃されているお囃子で静岡県の無形文化財第一号に指定されている。 独特の調子の良いお囃子に「シタ、シタ」の掛け声が合わせる。

曲目は、道中囃子として「大間」「屋台下」「馬鹿囃子」、役太鼓と称した「昇殿」「鎌倉」「四丁目」の6曲がある。 道具は、小太鼓2、大太鼓1、摺金1、笛2、踊りは、ひょっとこ、おかめ、般若(馬鹿囃子)がある。

笛は、「特一本調子」と言われる全国的には珍しい大きな笛を用いる。遠州地方の、天竜川を境に東側の地域の祭典では、 掛川市横須賀の他に、磐田市、袋井市、菊川市付近でこのお囃子を囃している。(一部を除く)
更に詳しい解説は、下記リンク「三社祭礼囃子保存会」様のホームページに記載されている。

遠州横須賀三熊野神社大祭 三社祭礼囃子保存会


笛
写真は、特一本調子の笛




---------- 熊野の長藤祭り(ゆやのながふじまつり) ----------



推定樹齢800年、国指定天然記念物「熊野の長フジ」の開花時期に行われるイベント。
「熊野御前」の命日とされる5月3日に合わせて行われる。(藤は、「熊野御前」が植えたとの言い伝えがある。) 花の見頃は4月末が目安だが、最近は早ければ4月中旬には見ごろを迎えている。


  【開催時期】4月中旬頃〜

【場所】 磐田市池田の行興寺と熊野記念公園周辺

【お問合せはこちら】 長藤まつり実行委員会 TEL 0538-34-4737(豊田西公民館内)
             行興寺 TEL 0538-34-0344
【入園料】 無料

【アクセス】JR豊田町駅北口から市営バス「ユーバス」(ゆや号)で25分(日曜は運休)
「熊野公園入口」下車、徒歩約2分

【お車で】 東名磐田IC・浜松ICより約15分


……………… 熊野御前(ゆやごぜん) ………………

平安時代末期に池田荘の庄司の藤原重徳の娘として生まれ育ち、 教養豊かな美しい女性で、和歌の道にも通じ、親孝行あったことから、当時の人々に 「女性の手本」とされていた。当時遠江国司だった平宗盛に見初められて都に上り、 大変寵愛されていた。平家物語や謡曲などで広く知られている。 「いかにせん、都の春も惜しけれど、なれしあずまの花やちるらん」という、熊野が詠んだ 一首に心を動かし、病気の母を思う熊野に帰郷を許したということ。やがて郷里池田で 宗盛の死を知った熊野は尼になり、33歳の若さで生涯を閉じた。

熊野御前 ポスター 長藤
長藤2 謡曲



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